1973年(オイルショックの年)神奈川県川崎市生まれ
4,000gを超える大きな子でした。
小学生の時は家庭教師に二つの塾を掛け持ちで通い、そのストレスか髪が薄くなったと親が心配していたのをよく覚えています。
二つの塾のうち一つは大手でしたので、都内のあちこちにある会場へ毎週通っていました。
電車好きだった僕は、塾のたびに毎回違うルートでわざと遠回り。
駅のkioskで買ったイカソーメンを片手に、普段は乗れない路線を使って家へ帰るのが大好きでした。
小学校は五年生の時に私立から地元の公立に転校。
転校時は緊張しましたが、給食は美味しいし、縛りが少なくて最高!
その後の小学生生活は今でも、戻ってもいいかな、と思える程楽しい時間でした。
中学高校時代は射撃部に所属
小さな頃からおもちゃの鉄砲が大好きで、中学入学と同時に射撃部に入部しました。
おもちゃの鉄砲でサバイバルゲームをしている部だと思って入部したけれど、オリンピック種目にもなっている、れっきとした競技を練習している、しかもバリバリの体育会系部活だと気が付きビックリ!
ちなみにジュニアのライフル射撃は、エアーライフル/ビームライフルで10m先にある0.5mmの標的(真ん中に当たると10点)を立ったままの姿勢(Standingと呼びます)で40発 or 60発撃ち、合計の点数を競う競技です。
中高一貫校だったのですが、入部時の部員構成は高校生が主で、中学生は僕一人でした。
礼儀の厳しさ、筋トレの多さに驚きましたが、年齢が離れていることもあってか先輩方には(良くも悪くも笑)随分可愛がって頂きました。
とは言っても予想通りおもちゃの鉄砲が大好きな先輩が多く、部活の練習とは別に定期的にサバイバルゲームもしていました。
年齢、職業に関係なく同じ趣味を持った人たちが連絡取り合うこともなく毎週日曜日に集まってくる。
そんなフィールドが二子玉川の河川敷にあったのです。
ある雪の日、ゲームの合間にカセットコンロで雪を溶かして沸かしたお湯で作ったカップラーメンの味は今でも忘れません。
その頃の趣味は、洋楽鑑賞と、おもちゃの鉄砲の改造でした。
お金はないので、東急ハンズや金物屋さんで安い素材を手に入れ切ったりヤスリで削ったり。
僕の部屋のカーペットはいつも削りカスとオイルで汚れていました。
そんな僕を見て両親は、手先が器用なようだし歯医者にするのもいいかも、と思ったようです。
スランプとメンタルマネージメント
ここからは射撃部の本業、ライフル射撃の話です。
入部から3年が経過し、練習試合では大分いい成績が出せるようになりました。しかし肝心の本番では緊張のためか本領発揮が出来ず悩んでいました。
そんな時に顧問の先生より手渡された一冊の本が、僕の人生に大きな影響を及ぼす事となった”メンタルマネージメント”です。
“目標を明確にして今すぐ紙に書け”とか、”その目標を人に表明せよ”などなど。
それは当時の僕には全く馴染みのなかった、心のあり方やイメージトレーニングに関する本でした。
え!?それって意味あるの!!?と面食らい、オカルトのようにすら感じました。
でもそんなことは言ってられません。
どうしようもないスランプに陥っていたので、半信半疑ながらも本に書いてある事を実践してみました。
すると驚くことにみるみるうちに成果が出始めたのです。
まずは新人戦で優勝。徐々に関東大会やインターハイ、国体等の大きな大会でも活躍出来るようになり、国内の十傑にも選出されました。
それ以来、僕は日常生活にもメンタルマネージメントを応用し始め、今でも活用しています。
メンタルマネージメントに関しては後日記事を書こうと思っています。
洋楽大好き
先ほど書きましたが実は小学生の頃から洋楽が大好きで、神奈川テレビのbillboard TOP40を欠かさず観ていました。
当時はレコード/テープからCDへの移行が始まった頃でした。
塾通いで都内を散策するのに慣れていた僕は、Tower recordsやCISCO等で扱っていた輸入版のCDに衝撃を受けました。
皆さんご存知かも知れませんが、当時の輸入CDはその二倍のサイズの大きな箱に入っており、その外国な雰囲気に僕はぞっこんでした。
CDの箱を貯めておいてコラージュを作ったくらいです。
音を聴く環境にもこだわり、中学3年の頃から親の知り合いのところでバイトをさせてもらい、コツコツとアンプやCDプレーヤー、スピーカーを集めました。
アンプの蓋を開けて全てのコンデンサに銅板を巻いたりケーブルを交換したりスピーカーを自作したり。
楽しかったな~!!
同じ曲なのに、以前の環境では聴こえなかった音が再生されるようになり、いたく感動したものです。
その時に買ったSANSUIのアンプ(懐かしい!!)やBOSEのスピーカーは今も現役です。
その後、段々と聴くだけでは飽き足らなくなり、自分の大好きな曲達を誰かに聴いてもらいたい!と思うようになりました。
お金のなかった学生時代はコツコツと下調べをし、大学を卒業して給料が入るようになると音楽機材を徐々に買い集め、親友と音楽制作やDJをするようになりました。
20代後半より渋谷で気の合う仲間3人で月一音楽イベントの運営を始め、30代半ばまで続けていました。
すると徐々に大きなイベントにも声をかけてもらえるようになり、東京以外の都市でのイベントやお台場の渚音楽祭にも出演。
タイのアサヒスーパードライにスポンサーとなって頂き、バンコクへDJツアーにも行きました。
毎晩2箇所のクラブを巡りDJをする数日間。
親友たちと一緒の楽しい旅でした。
コツコツオリジナル曲も作っています。
海外のレコードレーベルに何度も送っていますが、2019年現在、未だいい反応を頂いていません笑。
歯科医師として
横浜市の総合病院に15年間勤務、後半の大部分を管理職として過ごしました。
高校時代は物理と数学が得意だったので理工学部に行こうと考えていましたが、先ほど書いたように親の勧めもあって歯学部に入りました。
歯科医師という仕事は細かい作業や人と話すのが大好きな僕にとても向いていました。
家族を治すつもりで、をモットーに徐々に治療の守備範囲を広げています。
休職とロンドン留学
在職中29歳の時、このまま三十路を迎えて良いのか悩みました。
悩みに悩んだ結果、
”音楽製作にどっぷり浸かる1年があっても人生バチが当らないのではないか?”
と考え休職を決意。
“ならば日本にいなくてもいいのでは?”
“だったら僕の大好きな音楽の主な産出国であるイギリスに行ってしまおう!”
“ついでに外人の目もまともに見れないくらいにコンプレックスな英語を克服してしまおう!”
と考え、職場の寛大な理解の元、2004年より1年休職し渡英。
ロンドンで10ヶ月強ホームステイをしながら毎日朝から晩までどっぷりと英語の勉強に専念。
そして週末はもちろん最新の音楽に触れるためにクラブ活動です。
ロンドンは僕のような音楽好き、ビール好きには天国のような場所です。
怖くて外国の方と目を合わせることができなかった僕が、自分で決めて一歩を踏み出し、自分の資金でやり遂げた初めての大冒険。
共に苦労した世界中からの仲間たちとの出会い。
貧乏留学でしたが、それは一生をかけて学ぶであろう沢山の出来事がぎゅっと凝縮された濃厚な経験でした。
そしてうつ病に…
元々根拠のない自信だけは人一倍な性格だったためか、留学前は”大体において自分は正しい”と思い込むことが多かったように思います。
言い換えれば、”もし相手の考え方が自分と違ったなら、相手の方が間違っている確立が高い”、と考えがちだったのです。
振り返ればその頃管理職をしていた時のストレスは、その強い思い込みのお陰で自分の心へのダメージとはなっていなかったのかもしれません。
ところがロンドン留学を経て、国の違い、文化の違い、言葉の違い、人種の違い、考え方の違い、挙げればキリがない位に沢山の違いの上に成立している世界の存在を知った僕は衝撃を受けました。
”違うこと”は”悪いこと”ではなかったのです。
他の考え方も確かに一理ある。
一旦そう受け入れるようになると、”大体において自分は正しい”をベースに築き上げた自信は跡形も無くなってしまいました。
日々の生活で自分の存在価値が見出せないのです。
すると職場では優柔不断なボスとなり孤立し、プライベートも上手く行かなくなりました。
自分がいなくてもいいのではないか。誰も困らないのではないか。
毎日毎日そんなことばかり考えていました。
死んだらどうなる?
間違いなく社会は変わりなく回り続ける。
職場は少し混乱するだろうけど、誰かが僕の代わりに穴埋めをしてすぐに日常に戻るだろう。
友達は?
悲しんでくれるだろうけれども、彼らには彼らの人生がある。僕の存在は不可欠ではない。
じゃあ両親は?
ああ、両親は悲しませたくはない。
色々なことを削ぎ落とした時、最後に気にかかるのはやはり家族なのでした。
それに死ぬのは正直怖かった。
この二つが僕が生きる理由でした。
その頃は夜も眠れなくなり、酒を飲み、借りたレンタルDVDをひたすら観る毎日。
それでも眠れず、毎朝日が昇るのを窓から眺めていました。
そのうち元気が出るだろうと思っていましたがますます滅入る一方。
ある日興味本位で近所の心療内科へ行ってみました。
今の状況、心境を正直に話したら何と言われるのだろうと思ったのです。
するとうつ病と診断され、この僕が?と、はじめは驚きました。
でも実際に診断されてみると、体調が悪い時に熱を測ったら高くて、やっぱり!と思うのと同じように、ああ、だからか、と妙に納得したのを覚えています。
担当の先生には沢山話を聞いてもらい、沢山薬をもらいましたが、薬は一つも飲みませんでした。
どん底は三段構え。そして底を打つ。
その頃に何より嫌だったのは、自信をなくした自分よりも、そんな風に無為にしか時間を過ごせない自分でした。
それが嫌なのにまたそんな時間を過ごしてしまう。
その悪循環が余計に状態を悪化させるのでした。
回復のヒントがあるのでは?と思い沢山の本を読みながら数年間試行錯誤を繰り返しました。
それでもどん底だと思っていた精神状態からその数年の間に更に三段ほど深みへと落ち込んだように思います。
そしてとことん色々な事を諦め、開き直った時、状況が変わり始めました。
ちょうどその頃メールをくれたイタリア人の友人に、そんな自分の状況を近況報告がてら相談したのです。
すると彼は、”そんな時は人を助けるんだよ”と言いました。
彼が熱心なキリスト教徒だと知っていたので、きっとそこからの言葉なのだろうなと思いました。
僕は宗教は信じていないので素直に受け入れるのには抵抗がありましたが、藁をもすがる思いでどうすれば人を助けられるか考えました。
すると答えは目の前にありました!
僕の仕事、歯医者は人助けになるのです^^。
よし。そこをとことん突き詰めよう。
治療技術を高めてもっともっと患者さんの力になろうと決めたのです。
どうせ眠れないから眠れない時間は勉強に充てました。
独り身の僕には、週末や休日は仕事がないので気が滅入る嫌な時間でした。
そこは講習会と治療の見学で埋めました。
とにかく歯の勉強にほぼ全ての時間とお金と精神力を注ぎ込見ました。
1人で何もしないでいると、何もしていない自分にまた落ち込むので、勉強していると気が紛れました。
少なくとも時間を無駄にはしなかった、と思えるのです。
そしてそんな事をしていると、あっという間に今まで出来なかった事が出来るようになってきます。
すると少しずつ歯車がうまく回り始めました。
誰もが出来る治療ではないので患者さんが喜んでくれました。
スタッフが信用してくれるようになりました。
自分の存在意義を感じるようになりました。
勉強にも更に力が入ります。
海外の学会に参加したり、英語の文献を読むようになったり。
そうなると今度は専門用語で海外の同業者と会話が出来ないことをストレスと感じるようになりました。
この頃から、”いつかは海外で(当時は留学したことのあるイギリスで)歯科医師免許を取ろう!”と考えるようになりました。
妻との出会い
落ち込んでいた数年間のある夏休み。
何の予定もない、彼女もいない僕は、このうつ病のきっかけとなったロンドンへ行こう、お世話になったホストファミリーと話せば何か答が見つかるのではないか、と思い立ちました。
向こうの友達をあてにして、ホテルも予約せず航空券だけ買って向かったロンドン。
到着したその日、ヒースロー空港からのバスで、将来妻となる女性に出会いました。
もちろんその時にそんな未来は見えていませんでしたが、バスの窓の外に広がるスカッと突き抜ける青空を見て、気持ちがすーっと軽くなるのを感じたことをよく憶えています。
振り返ればこの頃から少しずつ僕のうつ病はいい方向に向かい始めたのだと思います。
ここまで読んで下さりありがとうございます。
長くなってしまったので一旦ここで区切って、後日続きをアップします^^。
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